客観視と往生

客観視と往生

「(その相談にきた人は)相手のご主人がわかってくれないんだって怒っているのね。そういうことじゃなくて、みんなそれぞれに欠点はある、その欠点は、ただデタラメにあるわけじゃない、その欠点をよくよく自分のものとして、その欠点に往生してしまったときに、何かそこに開けるものがあるんだっていう考えなのね。」

和田重正 著『人生科』より。

和田重正さんは、私の先生の師匠である内山興正老師と同じ時代に活動され、そして当時主に宗教書を出版していた「柏樹社」から共に自著を出版している。その意味で私にとってもなんとなく近い方です。
和田さんは27歳の時に、自身が言うところの「往生」されました。
亡くなったのは86歳なので、この往生というのは死んだということではない。

往生という言葉には二つの意味があって、

① この世を去って,他の世界に生まれ変わること。
② 死ぬこと。

27歳の時、和田さんに起こったことは、①の意味での往生です。
それで、相談に来た相手にも、人の欠点に苦しむんじゃなくて、欠点を自分のものとして、その自分は死に、新しく生まれなさいと、和田さん自身に起こったことを勧めているわけです。

これ、マインドフルネスのキモです。
マインドフルネスを客観視だと思っているなら大きな間違いで、実は一旦死ぬ(往生)こと。

つい怒ってしまうのが嫌だと、なんとか怒らないようにしようとする。不安で仕方がないと、なんとか安心しようとする。ということを人はしがちなんですが、これをやっても何も変わらないでしょう。自分の怒りや不安をいっくら「客観視」しても、何も起こらない。どころか、「怒らないようにしよう」と、「安心しよう」とすればするほど、怒りや不安は増していく。心は複雑骨折した状態になってゆく。

そうじゃなくて、和田さんの言うように、怒ってしまう、不安になってしまう自分はもう諦めて放っておく、あるいはその自分であることを辞めるんですね、死んじゃうわけです。
そうすると、多かれ少なかれ、何かしら「そこに開ける」もの、それがマインドフルネスです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA