人を善いものから遠ざけるもの

人を善いものから遠ざけるもの

 明けましておめでとうございます。
 2023年、この年末年始も朝ヨーガを配信して夜更かししたり深酒したりせずに気持ちよく過ごせました。
私は特に弱いので他人を巻き込んででもないと安全なところに止まれないんですよ。
でもこうやって巻き込まれてくださる人がいるのでありがたいです。
 それすらもできなくなるとまずいんですが、そうやって善いものから人を遠ざけるものってなんでしょうね、考えてみます。
 
 思考(頭の中の声)と感情(頭の中の声に対しての体の反応)を完全に信じきっている人は瞑想をしないものです。
 瞑想する人でも思考を信じこんでしまう時点で瞑想から遠ざかることが多いようです。思考を信じてしまうとは、つまらない自分の言い分を通すということ。ああだこうだと。たとえば人から諭されるなど一見すると不愉快なことが持ち上がったとき、その不愉快さの向こうに何かから解放された自由なもの、健全なものを垣間見ることの出来る人は、自分の言い分などさっさと捨てて飛び越えてゆけるのかもしれません。
 
 逆から言うと、瞑想をすることで、ああだこうだ言う思考と感情を信じなくなってゆくものです。

 瞑想者は、この、思考の苦しみから解放されたいのと、その思考自体が瞑想をやらせないのとのせめぎ合いをなんとか超えて瞑想し続けることで、思考と感情に支配された不安や恐怖や後悔などあらゆるネガティブなものから解放されます。

 問題は、ネガティヴなものそのものが瞑想を遠ざけるということ。瞑想をすることで思考や感情を生み出すネガティヴィティはなくなっていくのはその通りなのですが、ネガティヴィティが思考や感情となって瞑想から遠ざかろうとする。

瞑想会で何度となく見ることのできるドラマです。

善いもの(あるいは人)から遠ざかろうとするとき、今一度思考や感情を疑ってみてほしいと思います。

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