前回は、日本では輪廻というとせいぜいエンターテイメントとしてしか存在しないけれども、世界標準の仏教やヨーガでは輪廻や前世は大前提であると言いました。
輪廻については、バガヴァッド・ギーター第八章「永遠に至る道」で、読むことができる。
「死の時が来て肉体を離れるとき」から始まり、そのあとどうやって解脱の方へ向かうかが続く。
仏教やヨーガが輪廻からの解脱を大前提としているのはこの通りです。
で、実際はどうなのよ、というはなしです。
私はここで、池田晶子さんのテクストを引用したい。
なぜ自分はこうとしか感じられないのか
なぜ彼はああとしかできないのか
…中略…
以前私は、苦しまぎれに、「魂の初期条件」という言い方をしたことがある。俗にいうところの「生まれつき」、無意識や記憶をもち出すことなく、ある人がその人であることの不思議を言うことができる。
何を言ったことにもなってないではないか
そうなのだ、何を言ったことにもなってないのだ。なぜなら、それについて何かを言おうとすると、これはもう避け難く「生まれつき」の「生まれ」以前について、言わなければならなくなる。それで私は、言おうか言うまいか、いつもここでは相手を見てから言うことにしているのだが、
以前に生きていたことがある
どうしても、そう言わざるを得なくなる。のだが、何かこうえらく大変なことを聞いてしまったというふうな反応をする人の方が多いので、あまり言わないだけである。
…中略…
無意識とか記憶とかの小手先の小細工で、有限と決まっているほうの自分の解釈などしているよりは、いっそ宇宙大の無意識と宇宙大の記憶をもってきて、無限大の自分を考えるほうが、はるかに生産的で、しかも深く納得がゆく。
「私」は唯一である
そして「私」はこの人間である
ところで死は存在しない
したがって「魂」は存在し続ける
『残酷人生論』魂は存在し続ける より
この手触り。
なぜこうなのだろうというとき、これ以前に理由を見る。素直に考えるとそうなります。
池田さんのいうように、たかだかうん10年の人生に無理くり理由を見つけようというのでなく、いっそ大きなものを想定したほうが、はるかに深く、納得がゆくのです。