手放せる人と手放せない人

手放せる人と手放せない人

「思い」を手放すことで瞑想に入っていく。
身体が変わって、シンキングマインドが落ちて、なぜか呼吸が見えている事態になる。

のだけど、私も含め手放せない人が多い。

手放せる人も中にはいて、この人たちは生まれながらに、または人生の中で強制的に手放すことを経験していて、「手放す」ということを多かれ少なかれ知っている。この人たちは心と身体を開くことができる。

一方、手放すことが出来ない人たちは、手放せないから、つまり、瞑想の入り口にすら弾き返される。
この人たちは心と身体が閉じていて、普段から緊張が強く、緊張による身体の痛みや不調を訴える場合が多い。緊張を緩めるために何かに依存する傾向がある。これが強すぎると心療内科の受診が必要になったり、あるいは精神疾患と診断される場合もある。

しかし、手放せない人にも大きなアドバンテージがあって、この人たちは手放せないことでそもそも苦しみが大きく、心という厄介なものを完全に問題視することがすでにできているので、「心を超える」という問題意識を持っている人が多い。むしろ手放せる人たちの方が、あえて心を超える必然性がないから、そもそも瞑想も必要としないし、瞑想に縁があっても、続ける必然性もあまりない場合が多い。
 

手放せない人たちの、手放せないがゆえの苦しみ、どうしても改善できない、治癒は望めないとしか思えなかったものも、改善、治癒を可能にするのが、自己の二重性の理解からの瞑想です。

   「思い」
↓↓思いの手放し↓↓
 〈思い以上の自己〉

「思い」の次元をいっくらいじっても、思いそのものは超えられない。
これが、宗教色を排除したマインドフルネスの限界です。
「思い」である「私」という、存在の基盤から問い直すことでしか、根本治療はできない。
しかし基盤が変わってしまえば、不動に思えた事態も一変します。

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