一法庵で坐禅(瞑想)指導を受け始めて10年である。
そもそも一法庵に行き始めた理由とはなんだったかのはなし。
理由は明白で、一法庵では「心を心でコントロールすることはできない」と言い切っていること。反応する心、不安、恐怖、怒り、妬み、疎外感など、内側からえぐるように自分自身を苦しめる、止めようと思っても止めることのできない、止まらない心が我々のデフォルトであるというところから始まる。
このスタート地点が、唯一無二にも等しいことがわかりますか?
普通、心療内科やマインドフルネス講座、瞑想会などでも、「止まらない心」という問題までは同じですが、問題に対して、「止まらない心」自体をなんとかしようとする方向しかない。一法庵は、止まらない心をなんとかしようとすることはできないと理解した上で、全く別の方向を提示する。
私が直観的にこれだと感じたのは、心に手をつけてはダメ、人にはこのどうしようもなく止まらない心以外に、もう一つ何かがあるのだ、という方向を示してくれたこと。その何かを、雲に対しての「青空」、「Buddha Nature」、最近ではキリスト教の三元論の一つ「プネウマ」などと呼んできた。
「止まらない心」自体をなんとかしようとする方向しかないのが普通だが、そうするとどうなるか、わかりますか。
どうにもならない。心が心をどうにかしようとするればするほどむしろ深みにはまってゆく。手をつけてはダメというのはこの意味である。この方向では、どうにもならないのです。
一法庵ではまた、こうも言う。
「オレ」が瞑想するのではない。「オレ」には瞑想はできない。
瞑想に真剣に取り組んできた人なら、ここにピンとくるはずだ、と。
心ではない何か、オレではない何かでしか瞑想はできないし、心を超えることはできない。