宗教としてのマインドフルネス

宗教としてのマインドフルネス

「宗教性を排除した脳科学に基づくマインドフルネス」というのが、マインドフルネスを、人々が安心して取り組めるものにしている、一般的な謳い文句のようです。
ここには宗教という言葉に対して人々が持つ、感情的にネガティブな問題があるので、なかなか難しいところではあれど、そこを敢えて、「マインドフルネスは宗教であるということを言わなければならない」ということについて。

まず、宗教とは何かということを、道元禅師の言葉から考えてみます。

(正法眼蔵随聞記 五の十八より)

揀択(けんじゃく)の心だに放下しぬれば、直下に承当(じょうとう)するなり。揀択の心を放下すると云は、我をはなるるなり。

揀択(けんじゃく)…好き嫌いの意味

直下(じきげ)…すぐ

承当(じょうとう)…会得すること
「好き嫌いの心を手放せば、すぐに会得する(さとりを得る)、好き嫌いの心を手放すというのは、我(エゴ)を離れることである。」となります。

道元禅師はここで、好き嫌い=我(エゴ)である、と、言っている。
好き嫌い、すなわち我を手放すことがさとりであると。
我を手放して、我ならざるものを自覚することを、あらゆる宗教は教える。
我ならざるものは、もちろんマインドフルですよ、好き嫌いである我を離れているのだから。

マインドフルネスは好き嫌いのない状態を要求する。
はなから「好き嫌い」=「我」のない状態を要求している。
マインドフルネスはつまり我を手放せというそもそも宗教の話。
我ならざるものを明示せずにマインドフルネスは成り立たないということです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA