YOGAYOMUというヨーガのフリーペーパーにインタビューを載せていただきました。
特集は「仏教と瞑想」。
それって私のことよねえ。よく声をかけてくださいました。
ヨーガの八支則(アシュターンガ・ヨーガ)を本当にやりたいのであれば、あるいは、ヨーガ・スートラやバガヴァッドギーターなどヨーガの経典を本当に読みたいのであれば、仏教瞑想の実践は必須だと私は思っています。
瞑想で見えてくるものを少なからず知らないと、八支則の後半もスートラもギーターも何一つ意味を持たないばかりか、意味を持たないことすらわからないだろうと思います。私がそうでした。
なぜ仏教瞑想が必須かというと、ヨーガの中にはきちんとした瞑想実践がないからです。
仏教には膨大な瞑想メソッドとダルマが揃っていますので、これをやらない手はない。
以前、一緒に瞑想をしている友人が、南インド、ロナウラにあるカイヴァリヤダーマヨーガ研究所に行って実技と座学と数ヶ月学んで帰ってきました。そこで指導される瞑想も仏教瞑想だったそうです。
そうでしょうね。ヨーガには瞑想メソッドはないので。
厚い伝統に支えられた仏教瞑想を実践することで、八支則の後半がいきなりリアルなものになってきます。スートラの初めの節「ヨーガとは心の働きを止滅すること」ということも、単なる言葉ではなくなってきます。
スートラが言うように、心が止まらないことが人類の問題なのですが、瞑想で入っていったところを少しでも知らないとその問題意識すら持てません。
つまり、仏教瞑想の実践なしには、八支則、アシュターンガヨーガは始まってもいないということ。
ヨーガスートラの第一節目すら実感を持つことはできないということです。
ヨーガはつまり、徹頭徹尾、形而上のことしか説いていないのです。
YOGAYOMUでもこの問題意識から特集を組んだのかもしれませんね。